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インドネシア旅行記

イリアンジャヤのダニ族、コモド島のコモド・ドラゴン、フローレンス島のクリムトゥ山を訪ねて

インドネシア旅行の足跡


 人口2億人以上、国土は日本の約5倍ある東南アジアの地域大国インドネシア。

 アジア通貨危機に端を発した1998年5月のジャカルタ暴動からしばらく経ってから、1999年5月後半までインドネシア国内を旅行して回った。 そしてインドネシアで20才の誕生日を迎えた。

 治安が悪かったこともあってか、その当時は旅行者はほとんどおらず、バリ島以外で日本人旅行者に会うことはほとんどなかった。

 シンガポールからバタム島行きのフェリーで、インドネシア入りして以降、スマトラ島を縦断し、ジャワ島を横断し、ボルネオ島(カリマンタン)を1周し、スンダ列島を横断し、ニューギニア島まで渡ったが、スラウェシ島、マルク諸島などなど行けなかった所も沢山あった。
 マルク諸島のハルマヘラ島(Halumahera)の上にあるモロタイ島(Morotai)に、残留日本兵の村があるという噂があり、是非とも行ってみたいと思っていたのだが、当時はイスラム教徒とキリスト教徒との間で宗教対立が激化し、「アンボン暴動」がマルク諸島で拡大しており、とても旅行者が行けるような状態ではなかった。
 最終的にアンボン暴動での死者は4,000人を超えたと言う。 当時の新聞の一面に、対立する相手の首を切り取って雄叫びを上げる覆面男の写真が掲載されており、それを見てそれまで迷っていたマルク諸島行きを諦めた覚えがある。

 まだ行っていない所が沢山あったのに、インドネシアを出た理由はただ一つ。 とにかく疲れた・・・ 体力と気力の限界だった。
 飛行機に乗ったのは、バリ島からオーストラリアに行った時と、イリアンジャヤで幹線道路の無い内陸に行った時だけで、それ以外は全て船とバス。 しかも、ジャカルタ→ジャヤプラ間を船で7泊8日とか、スマトラ島をバスで50時間掛けて縦断などを最高に、10時間、20時間の移動などは当たり前だった。
 移動中はスリに注意し、移動が終わって目的地に着くとタクシーやベモの運転手とか、ロスメン(ゲストハウス)の客引きとか、乞食とか、怪しい人とかにグルっと囲まれて、彼らと戦わなければいけないので油断は出来ない。
 インドネシアの旅行は体力と気力の勝負なのだ。

 例えば・・・下の日記は、ジャカルタからスマトラ島メダンまでバスで移動した時につけたものだ。


1999年5月11日(火)インドネシア・ジャカルタ→ブキティンギ
 だりー。移動だ。しかも32時間!! 昼の2時、送迎バスでバス会社のオフィスへ向かう。 バスは思った通り満席。 なんでインドネシアって、どのバスもいつも満席なのだろう? 夜8時にカーフェリーでジャワ島を出てスマトラ島に入る。 ヒマだから隣の席のお姉さんと遊ぶ。

1999年5月12日(水)インドネシア・ブキティンギ
 はっきり言って道路悪過ぎ! 眠れたもんじゃない。 なんとか32時間耐え、ブキティンギに着いたのは夜11時半。 隣の席のお姉さんは、このままメダンに行くそうだ。 『バンブーホームステイ』のドミトリーにチェックインする。 鏡を見たら、目の下にクマができていた。

1999年5月13日(木)インドネシア・ブキティンギ
 この町では、旅行者はスターの気分を体験できる。 多分遠足か修学旅行で来ているであろうインドネシア人の学生たちに囲まれ、サインと写真をねだられるのだ。 女の子たち6〜7人に囲まれ、一人ずつサインをしてあげて、写真を撮らせてあげて悪い気はしない。 特に白人は見た目から“外人”だから、すごい人気だ。 はっきり言って不細工な顔の白人女が20人くらいに囲まれてすごいことになっていた。 俺なんて有名人が来ているのかと思って近づいて行ってがっかりした程だ。 あの女のうれしそうな顔・・・ 自分の国じゃ相手にもされないんだろうな・・・

1999年5月14日(金)インドネシア・ブキティンギ
 バスターミナルに行って、今夜発の夜行バスのチケットを買った。 スマトラ島の最も有名な観光名所トバ湖のパラパトまで行くバスで35,000ルピア。 昨日、旅行代理店で同じバス会社のチケットを60,000ルピアで売っていたけど、自分で直接買うと安く買える。 しかし、ブキティンギってこんなに寒い所だとは思わなかった。 夜はシャワーを浴びるのもつらいし、朝もかなり冷え込む。 赤道直下のくせに、周りを山々に囲まれているからなのだそうだ。
 夜8時、バスでブキティンギを出発!と思いきや、席がないと降ろされる。 床に座って行くか?と言うから、金払ってるのになんでだとキレる。 どうやらバスターミナルで発券したオヤジが、予約を入れてなかったらしい。 つまり席番がないのだ。 仕方なく空席待ちだが、何しろここはインドネシア。 どのバスも満席。 8時間待ち・・・

1999年5月15日(土)インドネシア・ブキティンギ→メダン
 12時間待った・・・ 順調に行っていれば今頃はもうトバ湖に着いてるぜ。 金返せと言って、返してもらって1度町に戻る。 『バンブーホームステイ』に再びチェックインして少し寝る。 その後、バスターミナルへ行ってANSという会社のメダン行きバスチケットを買う。 もう二度と買うか、ALS。 おかげでトバ湖を諦めないといけなくなった。 昼1時半、バスターミナルへ向かう。 バスを待っている間、わけのわかんねぇオヤジが隣でずっと「アジノモト!」とか「ヒデトシ ナカタ!」とかうるさい。 うぜぇー・・・ こっちは疲れてぐったりしてるのに。
 夕方4時、ようやくバスは出発。 6時、赤道を越えて北半球に戻ってきた。

1999年5月16日(日)インドネシア・メダン
 朝10時、18時間掛かってメダンに到着。 ベモで市内へ向かい、ロスメン『イラマ』にチェックインする。 一応洗濯だけはして、あとは寝る。 ひたすら寝る。


 インドネシアの長距離バスはいつもどの便も満席だ。
 ジャワ島やスマトラ島を走っているバスは1列が2席+(通路)+2席だが、最悪だったスンダ列島フローレンス島のバスは、1列が3席+(通路)+4席だったりした。
 フローレンス島のバスは、まるで日本の満員電車並みの乗り心地だ。 それで、14時間とか移動したりした。 しかも、インドネシアの他の島と違うのが、フローレンス島の道は細い上に、曲がりくねり、アップダウンが激しい。 まるでジェットコースターのようだ。
 さらに!バスの横には英語で「Full Music」と書かれている。 乗るまで意味が分からなかったが、乗って初めて理解した。 14時間、インドネシア語の歌(演歌系)を大音量で流すバスだったのだ!! 寝れない・・・
 こんな感じで、インドネシア旅行はかなりの体力、気力を消耗するのだった。
 
 そもそも何でインドネシアを旅行しようと思ったのか?というと、バンコクの紀伊国屋書店で立ち読みした『インドネシア』のガイドブックがきっかけだった。
 たしか『地球の歩き方』だった気がするが、一番最後に1ページだけ『イリアンジャヤ』が載っており、それによるとイリアンジャヤは「地球最後の秘境」で、人々は未だに「男はコテカと呼ばれるペニスケース、女は腰ミノだけを着て生活」しており、そこへ行ったら「人間本来の姿をみれる」と書かれていた。
 これは行くしかない!と思い、バンコクで知り合った“一休さん”(坊主だったから、タイ人にこう呼ばれていた)と2人でイリアンジャヤに一緒に行くことにしたのだった。
 一休さんとは、タイ・バンコクからマレーシア、シンガポールと陸路で移動し、インドネシアではイリアンジャヤへ行き、最後はジャワ島のジョグジャカルタで別れるまでの1ヵ月半を一緒に旅行した。 別れて以来、彼とは会ったことがない。

 一休さんが旅行できる期間が2、3ヶ月しかなかったので、とりあえずさっさとインドネシアに入ることにした。
@バンコク発スンガイコーロク行き列車で22時間、3等席で220バーツ(約680円)
A歩いてマレーシアへ入り、国境からコタバルまでバスで40分
Bコタバル発ジョホールバル行きバスで13時間、26リンギット(約832円)
Cジョホールバルから170番の路線バスでシンガポールへ入り、そのままシンガポールを素通りしてインドネシア・バタム島行きのフェリーに乗る。所要40分、16シンガポールドル(約1,190円)
 宿代は別にして交通費3,000円でタイ・バンコクからマレー半島を縦断して、インドネシアに入国できた。

 最新のインドネシアの情報もなく、持っているガイドブックはバンコクの紀伊国屋書店で引きちぎってきた『イリアンジャヤ』の部分だけ。 そのため、インドネシアに入ってから苦労した。
 インドネシアに入って最初の夜は、ビンタン島の港の守衛室でダンボールを床に敷いて寝た。 ただノミがいたようで、足と腕に赤い斑点が沢山できて、体中が痒い・・・ しかも翌日の早朝、警察に追い出された。

 タラップに群がる乗客とりあえず首都ジャカルタに行かなければと、国営ペルニのジャカルタ行き客船のエコノミーチケットを手に入れる。 乗船開始と同時に戦闘が始まった。
 皆、我先に乗ろうとタラップに群がる。 罵声が飛び、前にいる人を押す。
 やっと乗れたと思ったら、寝るためのマットを取るための競争が待っていた。
 でも40時間我慢すれば、ジャカルタだ・・・ その40時間が長い!
 早朝からガキがアクセル・ローズばりに大声で泣き出すし、アラーのお祈りがこれまたバカでかい音量で長々と流れるし。

 夜8時くらいに突然船が止まって船内放送があり、まわりのインドネシア人たちは慌しく甲板に上がって行く。 ただならぬ雰囲気に、一休さんと一緒に甲板に出てみると、船員たちが救命胴衣を着て海を覗いている。
 座礁したかと思って、まわりのインドネシア人に聞いてみると、どうやら人が海に落ちたらしい。
 1時間半ほどして船は動き出した。 船内放送があったが、その声がめちゃくちゃ暗い・・・
 ど、どうなったんだろ?と、一休さんと話し合ってる目の前で、ガキが俺のサンダルの上でオシッコをした。 さらにそのサンダルを履いてどこかに行ってしまった。 子供嫌い!!

 ジャカルタでは、銀行口座を開設した。
 BNI(Bank Negara Indonesia)という銀行で、1ヶ月の定期預金で年利率は55%!!
 タイの銀行でも3ヶ月定期で11.5%だったから、それと比べても超高金利だ。
 ただ、昨日1円=72ルピアだったのに、今日は1円=58ルピアになったりと1日で為替が20%動くから、為替レートが悪い時(外人からしたらルピアが強い時)に外貨から両替して預金してもあまり意味がない。
 一番おいしいのが、ルピアが弱い時に両替して年利率55%の定期預金に入れること! ただ物価の上昇率もすごいからな・・・
 ちなみにBNIでは、一定以上の預金(確か日本円で10万円くらい)をしている預金者に、毎月抽選3名にBMW、15名にトヨタ車、300名にスクーター、1,500名に洗濯機が当たるキャンペーンをしていた。

 レストランで知り合ったインドネシア人の女の子2人組が、MONASという塔を見せに俺らを連れて行ってくれると言うので、ついて行くことにした。
 MONASは独立記念塔のことで、ジャカルタの中心にある。 塔のまわりは広場になっていて、夜も屋台が出て賑わっていた。
 俺らが歩いていると、インドネシア人がじろじろと俺と一休さんを見てくる。 女の子たちに聞いたら、皆が俺らを中国人だと思っているらしい。
 インドネシアでは中国人は嫌われている。 その女の子たちもはっきりと「中国人嫌い」と言っていた。
 彼女たちいわく、俺らの顔は中国人に似ているから危ないとのこと。 特に俺は日本人に見えないとまで言われた・・・ 夜は出歩かない方がいいらしい。
 さらに2日後にジャカルタで大規模なデモが予定されていて、その日は宿の外に出ない方がいいと忠告してくれた。
 彼女たちはムスリムでお祈りの時間があるというので、夜9時半ごろ別れる。
 一休さんと2人で宿に帰るために歩いていたら、筋肉隆々のオカマに追っ掛けられたので、走って逃げる。 インドネシアって怖いところだ・・・

ジャカルタ市内 ジャカルタの路線バスは賑やかだ。 洗剤の実演販売をしている人、なにやら演説をしている人、大声で歌っている人、ギターを弾いたり、太鼓を叩いている人などなど。 彼らはこうやってバスの中でお金を稼いでいるのだ。
 バスの中でこういう事をやるのは、東南アジアではインドネシア以外に知らない。 韓国・ソウルの地下鉄では、やっていたけど。

 ジャカルタで一番お気に入りの場所はジャラン・スラバヤ。
 この通りはアンティーク専門の店が立ち並んでいて、主にヨーロッパ渡来の調度品や時計、そして船関係の測量機器や舵、ランプ、あとはインドネシア各地の民芸品のアンティークが店先に並んでいる。
 特に、アジャラン・スラバヤの骨董品店ンティークカメラやタイプライターは数が豊富でついつい買いたくなる衝動に駆られる。
 レコード店もあって、昔のレコードが沢山ある。 なぜか南こうせつがいた「かぐや姫」のレコードを買ってしまった。
 ちなみに実家に置いてあるが、1回も聴いたことはない。

 イリアンジャヤの州都ジャヤプラ行きの船に備えて、2人でインスタントラーメン40袋、ミネラルウォーター、コーヒー100パック、トイレットペーパーなどダンボール2箱分買い込む。
 そこまでして乗り込んだジャヤプラまでの船旅はこんな感じだった↓

 第1日目:この日は、大規模なデモがあるから港まで3時間掛かると言われたが、無事デモには遭遇せず1時間で着いた。 夕方6時に「ドボンソロ号」はジャカルタのタンジュン・プリオク港を出港、これから7泊8日の船旅が始まる。ジャカルタ発ジャヤプラ行き『ドボンソロ号』

 第2日目:朝食を取りに行くが、他のインドネシア人より遅かったため、食事はご飯としょぼい魚3切のみ。 そんな貧乏人を尻目にファーストクラスからサードクラスの人達は、別室でバンドの生演奏を聴きながら朝食を取っている。 悔しいから窓から覗いてやった。 お昼のTVニュースでジャカルタのデモの様子を放送しており、戦車が出動して大変なことになっているようだった。 昨日はデモに遭遇しなくて良かった。 夕方、最初の寄港地スラバヤに到着。 ものすごい数の人たちが乗り込んできた。 今まで余裕があった船内がアッという間に人で埋め尽くされていき、ついには階段や甲板にまで溢れている。
 第3日目:またしても朝食を食べはぐれる。 朝9時、バリ島のデンパサールに寄港。 またしても人の洪水・・・完全に定員オーバーだと思うのだが。 甲板や通路、床にまで人が溢れてきた。 昼食は戦争になった。 結果は完敗・・・朝に続いて昼も食いはぐれる。 夜ヒマだったので、まわりのインドネシア人たちとトランプで七並べをする。
 第4日目:ドボンソロ号のトイレやシャワールームにはカギがない。 最初からないわけではなく、壊れているのだ。 しかも全部。 中にはきちんとドアが閉まらないところさえある。 気が付かないで入った人が、船の揺れで開いてしまったドアを押さえようと、あわててズボンを上げながら飛び出てくる微笑ましい場面によく遭遇した。 そんな船旅も4日目。 そろそろヒマで頭がおかしくなりそうだ。 お昼、ティモール島のクパンに到着。 ここからも大勢の人が乗り込んできた。 乗り込む様子を甲板から眺めていると面白い。 大きな荷物を持って乗船する人は、船員にサングラスとかお金などの賄賂を渡している。 そうしないと蹴り落とされるのだ。 面白い国だ。
 第5日目:深夜、東ティモールのディリに着いた。 ここで、俺らの隣に寝ていたパパ、ママ、リニの家族3人が降りる。 彼らには本当に親切にしてもらった。 荷物を運ぶのを手伝い、皆で記念写真を撮る。 けっこう感動の別れだった。 東ティモール・ディリにてあと、俺らが寝ていた場所からちょっと離れたところに、家族でいた中国系のカワイイ子もディリで降りていっちゃった・・・あ〜ぁ、残りの船旅つまんね。 しかしあの家族は見ていて可哀相だった。 中国系だから、まわりのインドネシア人たちから冷たい目で見られて、カワイイ子なんて卑猥な言葉(多分)を浴びせられたりして、一家でかなりガードを張って旅行しているのが見た目にもよく分かった。 夜9時、セラム島のアンボンに到着。 向かいに寝ていたグループが降りていった。 その後に今まで甲板で寝ていた人たちがやって来た。 これでまわりを知らない人たちに囲まれたことになって、ちょっと寂しい。
 第6日目:ずーっと寝ていた。 一応エサの時間には起きて食べるが、毎食毎食同じ物ばかりで飽きた。 夕方4時、イリアンジャヤの端にあるソロンに着いた。 ここまで来ると人間も変わってきて、皆髪の毛がチリチリで真っ黒だ。 しかし相変わらず床はゴミだらけで汚いし、寝て天井を見上げるとゴキブリが走っている。
 第7日目:今日でジャカルタを出て1週間が過ぎた。 発狂しそう・・・ 後ろに寝ていたインドネシア人が、日本語で「日本人ですか?」と声をかけてきた。 1年間、香川県で農業の勉強をしていたことがあるそうだ。 なかなか親切な人で、色々食料をくれた。 夕方4時ごろ、ビアクに着く。 降りてみると、住民はほとんど黒人みたいだ。 ニューギニア人とでもいうのだろうか。 ここはジャワ人のように中国人に対する反感もない感じで、にらまれもしなければ、じろじろ見られることもなく、逆に微笑みかけられたりした。 インドネシアは1万3,600以上の島々からなり、350もの民族で構成されているという。 場所や民族によって違って当然なのだ。
 第8日目:午前11時、ついにジャヤプラ到着!! まわりで寝ていた人たちと別れの挨拶をして下船する。 市内まで歩いていると、若者数人に握りこぶし大の石を投げられたので、一休さんと2人で投げ返す。 昨日のビアクはすごく良さそうだったのに、ジャヤプラは危ないのかな?

 ついに、一休さんとの旅の目的であるインドネシア最果ての地イリアンジャヤに来た!

 イリアンジャヤの内陸バリエム渓谷に入るには、警察で入域許可書を発行してもらわなければいけない。 イリアンジャヤの独立運動に関係してゲリラが出没するためだそうだ。 ジャヤプラ市内の警察署で申請すれば、その場で発行してくれる。
 市内ではマラリア予防のために蚊取り線香、虫除けスプレー、長袖シャツを買った。
 ジャヤプラ最初の夜は、市内からベモを2回乗り継いで1時間のところにあるセンタニ空港近くの『ラトナホテル』に泊まる。

 翌日、空港のインフォメーションでワメナ行きの情報を聞いて驚いた。 ガイドブックにはワメナまでの航空運賃が77,000Rpと書いていたのに、今は288,000Rp(約4,300円)すると言う。
 通貨危機の影響で値上がりは予想していたが、せいぜい2倍程度だと思っていた俺らは思いっきり当てが外れた。
 しょうがないので軍用機をヒッチハイクすることにした。 空港の裏にある軍の施設に行って交渉する。 ところがダメだと言いやがる。 粘って泣き落としで攻めるか、金を握らせてなんとかなるかと思ったが、どうやら無理っぽい。
 一度宿に戻り、一休さんと会議をする。 往復で57万ルピアはやはりきつい・・・でもせっかくここまで来たのだからワメナに行かないと意味がないし。
 色々な人に、ジャヤプラからワメナまで陸路で行けないのか聞いて回るが、道路がないのでジャングルを走るしかなく、飛行機で行くよりも高くつくと言われ、結局諦めてメルパティ航空でワメナまで行くことにした。

 次の日、メルパティ航空の50人乗りプロペラ機に乗客20人ほどと一緒に乗り込みジャヤプラを飛び立つ。 飛行中、地上を眺めてみると、果てしなく広がるジャングルと飛行機から見たジャングル曲がりくねって流れる河が見える。

 ワメナの市場約1時間ほどでワメナに到着。 飛行機を降りると、ガイドたちの売り込みがはじまった。 しかもやたらしつこい! 宿探しで歩いているときもずっと付いてくる。

 ワメナで一番安い宿にチェックインした後、町の市場を見に行った。 コテカしかつけていない男たちや、腰ミノしかつけていない女たちが歩き回っている。 でも、どこか観光客慣れしていて、擦れている気がするんだけど・・・

 夜、宿のロビーに座っていると、「ずっと待ってました」みたいな顔をしたガイドたち10人が近づいてきた。
 取り合えずトレッキングの相談だけでも思い、話しをすると、ガイドたちがまだ観光客慣れしていない小さな村に連れて行ってあげると言う。
 料金を聞くと2人で90万ルピア(約13,400円)。 これを一休さんと2人で1時間以上ネチネチと値引き交渉する。
 最終的にほとんどのガイドが帰っていったが、1人だけ残った。 料金は28万ルピア(約4,200円)。 ほぼ3分の1。
 ガイドが沢山いれば、それだけ「供給側」が不利になるって気が付かないんだろうか? この料金には、食料、ガイド料などが含まれている。 ポーターやコックは雇わなかった。

 赤道直下の熱帯ジャングルと聞くと、焼け付く太陽とうっそうと茂る熱帯植物をイメージする。バリエム渓谷 ここワメナも日中はその通りなのだが、朝と夜だけはジャンパーが欲しいくらい寒くなる。
 それもそのはず、ワメナは万年雪を頂く4~5,000m級の山々に囲まれた高地なのだ。 なのに彼らはなんでほぼ裸なんだろう?

 ワメナの銀行では両替をしない方がよい。 レートがものすごく悪い! ジャカルタで1$=7,500Rpだったのに、ワメナでは1$=5,000Rp。 しかも円のトラベラーズチェックは両替できない。
 最悪だ、円のトラベラーズチェックしか持ってない。 手持ちの現金は6万ルピアを切ってて、ジャヤプラまでの帰りの飛行機のチケットも買えない・・・
 でも深く考えるのはやめて、トレッキングを楽しむことにした。

 ガイドのアミューズと奥さんに連れられてベモ乗り場に行く。 車で行けるところまで行くのだが、ものすごい悪路だ・・・道とは呼べ丸太で橋の代わりないような道を1時間ほど走る。
 途中、橋が流された場所を渡る時は、皆で丸太を並べる。 終点からは徒歩になる。

 歩いている途中、畑を耕している男がコテカしか付けていなかったり、荷物を運ぶ女がオッパイを出して腰ミノだけで歩いているところに遭遇すると、やはり写真を撮りたくなる。
 でも写真1枚撮るのにも“お金”を要求される。 俺が写真を撮るたびに、アミューズがタバコをあげたり、1,000Rp(約15円)をあげている。
 アミューズとしては、ガイド料28万Rpの中からそのお金を出すわけだから、なるべく払わない方がいい。 そのうち、2人があまり沢山写真を撮ると嫌な顔をするようになった。 もっと気持ちよく写真を撮りたいんだけど・・・

 雨も降ってきたので、クリマという部落で1泊することになった。
 アミューズが野菜ラーメンを作ってくれる。 また部落の人たちがトウモロコシやサツマイモを持って来てくれるが、これは親切でくれるわけではない。 やはり毎回アミューズがタバコと交換したり、お金を払っているのだった。

 食後、焚き火をしてイリアンジャヤ・コピ(コーヒー)を飲む。 聴こえてくるのは、焚きが燃える音と風の音だけ。 しかも目の前にコテカしかつけてないダニ族の男がいる。 なんだか別の世界にトリップしたかのような錯覚を覚えた。
 何をするにしても“お金”という状況にがっかりしながらも、来て良かったなと一休さんと話し合った。

 夜は、モンゴルのゲルのような形をした、『ホナイ』と呼ばれる竹の壁とわらぶき屋根の家に泊まる。
ホナイ 俺と一休さん、そして高さ1mほどの仕切りを挟んでアミューズと奥さんが泊まる。 眠りに落ちそうになってウトウトしていると、隣から変な音が聞こえてくる。
 一休さんを起こして隣を覗いて見ると・・・アミューズと奥さんがセックスをしていた! 客の隣でセックスするなよなっ! そのためだけに奥さん連れてきたのか?! でも、彼ら素で普通の会話しながらセックスしてた・・・お、おそるべしニューギニア高地人。 さらにネズミの大運動会で、ネズミが体の上を走り回っていて眠れない。

 次の日、アミューズの奥さんはワメナに帰って行った。 本当に、何しに一緒に来たの?
 髪の毛チリチリでアフリカ人みたいな奥さんと別れた俺と一休さん、アミューズの3人はさらに奥のタンマを目指す。 ひたすら歩く。 途中で何人ものダニ族とすれ違うが、その度に握手を求められる。 急な坂道を登ってしんどい時に、いちいち話しかけられると、さすがにうっとおしい。

 しばらくすると、崖の下にタンマの部落が見えてきた。 ここら辺で腕時計の高度計は2,100mを示している。 足がガクガクになりながらタンマに到着。 アミューズが昼食に、洗面器に入った野菜ラーメンを作ってくれた。 豚小屋の隣で食べるため、ハエがすごい。 たまに豚が小屋の隙間からブヒブヒ言いながら飛び出してくる。

 このように、ニューギニア高地人の住むバリエム渓谷を歩いてまわったが、けっこうズボンを履いたり、ジャンパーを着ている人が多かった。 皆さんやっぱり寒いみたい。

 さらにニューギニア高地人といっても、1部族ではない。
 ダニ族の他に、さらに山奥に住んでいるヤリ族とかラニ族など、ニューギニア島全体で750以上の部族がいるそうだ。
ダニ族の女 とりあえずダニ族、ヤリ族、ラニ族の違いを教えてもらったのだが、男性の場合はコテカの形状で見分けられる。
 ダニ族は普通の細身のコテカ。
 ヤリ族は、ダニ族と同じ形のコテカなんだけど、よく見ると先っぽにタンポポの綿のようにフサフサっとしたのが付いている。
 ラニ族はちょっと太めのコテカで、先端がフタになっていて中身が財布になっているらしい。
 女性の場合は違いを見分けるのが難しいのだそうだ。 彼女たちは、腰ミノだけだから。

 ガイドブックで「人間本来の姿がみれる」と書いてあったので来たイリアンジャヤだったが、一休さんと2人で想像していた“心優しい”、“親切”な人たちはいなかった。
 後で思ったのだが、それを「人間本来の姿」だと勘違いしていた俺と一休さんの間違いだったのだ。
 「人間本来の姿」とは、欲望の塊のことだったのだ。 つまり、お金が欲しい時にストレートに「お金くれ」という物欲、セックスしたい時にしちゃう性欲、食べたい時に食べる食欲を隠さずにさらけ出している事なのだ。
 日本人だって、「お金くれ」と思っていても自己抑制なのか、羞恥心なのか、ストレートに出さないだけであって、そういう意味では今回会ったダニ族の人たちの方が自分を素直にさらけ出していて「人間本来の姿」を見せているのかも知れない。

 ジャヤプラに帰る日が来た。
 ワメナでメルパティ航空のオフィスへ行き、「色々使っちゃって手持ちに1万ルピア(約150円)しかない」こと、「とりあえず飛行機に乗せてもらって、ジャヤプラに着いたら日本円のトラベラーズチェックを両替して飛行機代を払うから」ということを伝えた。
 ところがオフィスでは飛行場のカウンターに行って責任者に聞いてくれと言う。
 そこで直接飛行場へ行って、責任者と交渉する。 一休さんは自分のチケットを買う分のお金は持っているが、俺の分まで出すと足りなくなるのだ。
 責任者は電話を掛けたりして、色々やっていたが最後には「飛行機代の後払いはできない」と言われた。
 んー、計算外だ・・・ そうこうしている内に、一休さんを乗せた飛行機は飛び立って行ってしまった。
 メルパティ航空は1日1便しか飛んでおらず、本気で焦ってきた。 今日ジャヤプラに行けなかったら、明日のジャカルタ行きの船に乗れなくなる・・・
 飛行場で駄々をこねてみたら、人が集まってきた。 その中に英語を話せる人がいたので、その人に事情を説明したら「座って待っていろ」と言う。 3時間ほど寝て待っていたら、先ほどの人が警官を連れてきて、警察署に連行された。
 そこで色々質問されたが、話し合って結論が出た。
 今日中に軍用機に乗ってジャヤプラへ行く。 着いたらパイロットにカメラとか荷物をデポジットとして預け、両替して30万Rp(約4,500円)を持ってきたら、お金と引き換えに荷物を返す。
 ようやく俺の案が通ったわけだ。
 警官に付き添われて軍の施設に行く。 警官が話しをしてくれ、OKになった。
 ただ警官が帰った後、パイロット達が「カメラをくれ」だの「時計をくれ」だのうるさい。 ただ今の状況は俺に非常に不利だから、適当にごまかす。
午後2時、軍用輸送機は飛行場を飛び立った。 機内はほとんどドラム缶でうまっており、機内には石油の臭いがたち込めている。 さらに機体の上昇による気圧の変化で、ドラム缶がベコンベコンへ込む音がすごい。 さすがにこれは怖かった・・・

 40分ほどでジャヤプラに到着。
 着いてすぐパイロットたちに連れられて事務所に行き、そこで荷物を預けた後、銀行へ両替をしに行く。
 両替が終わって、再び事務所に戻ってみるとパイロットたちはおらず、愛想のいいおじさんだけがいた。 おじさんに話しをしたら、「24万Rp(約3,600円)でいいよ」と言われちゃった!
 パイロットたちが帰ってこないうちにと、手早く荷物を持って事務所を飛び出す。 得しちゃった。
 待ち合わせをしていた『ラトナホテル』に行くと、一休さんは「よく来れた」と驚いていた。 後で冷静になって考えたら、確かによくやった。

 いよいよジャカルタに戻る日! ところがジャカルタ行きの『チレマイ号』は、イリアンジャヤに来た時よりも過酷な旅になった・・・

 第1日目:このクソ暑い日にインドネシア人は革ジャンとか着ている。 毛皮のコートを着ているおばさんもいる。 わけわからん。 午後2時、ジャカルタ行き『チレマイ号』に乗船。 ものすごい人の数で、やっと乗り込んだもののエコノミークラスはすでに人で埋まっていた。 探し回ったが、空いている所は少しあるものの、先にそこを占領して後から来た乗客にそのスペースを売っている奴らがいてダメだった。 それにしても『ドボンソロ号』より汚い。 そこら中をネズミが走り回っている。 しかたがないので、売店前のベンチをとりあえず確保。 夜7時に出港して、だいぶ乗客も落ち着いてきた頃、空いているスペースを探して船内を徘徊すると、1番船底の2デッキにスペースを見つけることが出来た。 荷物を持ってそこへ移動するが、ゴキブリがめちゃくちゃ多い! しかも人間になれている、最悪だ・・・ あとマットも手に入れられなかったので、寝袋を敷いて寝る。

 第2日目:疲れていたせいかぐっすり眠って、目が覚めたのが10時。 しかもガキの泣き声で起きたから不機嫌だ。 それに朝食も食べはぐれたので、カップラーメンとコピで寂しく朝食をとっていると、向かいに寝ているおばさんが笹巻きをくれた。 日本の笹巻きと似ている。 2人が食べているのをじっと見ているので、「Enak(美味しい)」と言うと喜んでいた。 お返しにコピパックをあげる。 お昼頃、最初の寄港地ビアクに着いた。 また人が増えたようだ・・・ ところで、笹巻きをくれたおばさんに年を聞いたら23才だった・・・
 第3日目:何もすることがない。 お昼頃、ソロンに寄港。 またまた人と荷物が増え、通路や甲板にまで溢れていて、歩くのさえ大変だ。 ドボンソロ号の時より人が多い気がする。 食事をもらうのにも、1〜2時間は並ばないといけない。
 第4日目:昼頃起きてみると、−1時間の時差があった。 自分の時計も1時間戻して、今日の仕事は終わり。 再び寝る。『チレマイ号』のエサ
 第5日目:無気力のため、3度のエサ以外動かなかった。(→写真は食べ残しではない。これがエサの全て)
 第6日目:11時、スラウェシ島のウジュン・パンダンに寄港。 俺らのまわりの乗客すべてを含め、ほとんどの人たちがここで降りて行った。 お菓子や果物を分けてくれたりと、色々親切にしてくれた隣や向かいのおばさんたちと握手をして別れる。 ウジュン・パンダンから乗ってくる客はほとんどいないため、俺らの寝ている区画は、2人の他に14才の男の子1人になった。 ガランとして少し寂しい。 2、3日前までのあの混みようは一体何だったのだろう?
 第7日目:14才の子をしつけて、俺らが食べ終わった後の食器の後片付けやゴミ捨てをさせるようにした。 いよいよ明日はジャカルタだ!
 第8日目:実にジャヤプラから160時間、ようやくジャカルタに到着。 ものすごい開放感だ!

 ジャカルタで少し休養した後は、列車でジャワ島中部のジョグジャカルタに行くことにする。
 ジャカルタ・ガンビル駅からジョグジャカルタまでの夜行列車は36,000Rp(約540円)。 しかもジャカルタ駅の2階に「ほかほか弁当」があった。 久しぶりに日本食でアジフライ弁当を食べちゃた。

 ジョグジャカルタで1週間ほど滞在し、世界遺産のボロブドゥール寺院や、プランバナン遺跡を観光したりして過ごす。
プランバナン遺跡 一休さんはこれからジャカルタに戻り、バンコクを経由してインドに向かうと言う。
 俺はジャワ島をさらに東に行き、バリ島に行くことにした。 一休さんとは握手をして別れる。

 俺は、夜行バスでバリ島のデンパサールを目指す。
 バスには先に日本人の女の子が乗っており、隣の席に座らされる。 この時は財布をすられる心配をしなくても良いから、インドネシア人の隣にならなくて良かったと思っていた。 ところが、夜遅くなってきた頃、通路を挟んで隣の席の2人組がおかしい。
 一人は大きな布を広げて通路に目隠しを作っている。 すると、もう一人が身を乗り出して俺のウエストバッグに手を伸ばしてきた。 こっちが起きているのを知っているのにだから、半強盗だな。
 「Apa?(何だ?)」と言っても止めようとしないから、ちょっと騒いだらようやく自分たちの席に戻っていった。 次の停車場所で彼らは降りて行ったから、もしかしたらプロの泥棒かも。
 ちなみにこの間、隣の日本人の女の子は完全無視・・・ちょっとは俺を助けろよなぁー。

 ジャワ島からバスごとカーフェリーに乗り込み、15分ほどでバリ島に到着。
 バリに入った途端、今までと景色がガラッと変わった。 緑の多さに圧倒されそうになる。 そしてヒンドゥー様式の寺院、今までのインドネシアで見たことがないような景色だ。

 バスの終点デンパサールから、乗り合いベモを乗り継いで芸術の村ウブドに向かう。

 途中、ビザの延長でオーストラリアに行ったりはしたが、ウブドにはトータルでかなり長いこと滞在したので、色々な人と出会った。
 ウブドに着いたその日の夜に知り合った、バリ滞在歴5ヶ月の洋○ちゃんと美○ちゃんには、最終的にバリを離れる99年3月までずっと、色々助けてもらったり、遊んでもらった。

 美○ちゃんとは一緒にバリの東に連なるスンダ列島を旅行したりした。
 後日美○ちゃんの旦那さんになったエランちゃんは、旅行中に2人の間に何かあったのではないかと心配してたみたいだけど、本当に何もなかったからね!

 バリのクタから、プラマ社のバスに乗ってロンボク島のバンガサルまで8時間。
 プラマ社のバスはツーリストしか乗せないので、盗難の心配がないのがいい。 バンガサルからボートに乗り換えてギリ・トゥラワンガンという島へ向かう。
 ギリ・トゥラワンガン島のまわりは澄んだ緑色をしており非常にキレイだ。 ギリ・トゥラワンガンには1週間滞在したが、毎日ボーっと本を読んだり、Arak(蒸留酒)を飲んで過ごす。 この島には、車もなければ、バイクも走っていない。 馬車が移動手段なのだ。

 1週間後、ギリ・トゥラワンガンを出る。
 ボートで40分でロンボク島バンガサル、そこからスンギギビーチ、マタラムとベモで移動し、マタラムからは大型バスに乗ってスンバワ島を目指す。
 ロンボク島からカーフェリーに乗ると、スンバワ島西端の港ポト・タノに着くが、バスはそのままスンバワ島東端の港サペに向かう。
 ギリ・トゥラワンガンを出てから実に23時間でサペに到着。

 サペからは、コモド・ドラゴンで有名なコモド島へ向かうフェリーが出ている。
 フェリーは、1番安いキャビンで9,700Rp(約145円)、時間は約6時間でコモド島の沖合いに着く。 水深の関係で、フェリーはコモド島に近づけないため、沖合いから小型ボートに乗り換えて上陸する。

 コモド島は島全体が国立公園になっているため、『Komodo National Park Lodge』という宿1軒しかない。
 コモド・ドラゴンを見に行くには、1人2,000Rp(約30円)のガイド料を払って、国立公園のガイドに公園内を案内してもらうのもよい。 ガイドはコモド・ドラゴンを見付けてきては案内してくれる。
 最初に見たコモド・ドラゴンは子供だったが、体長1m50以上はあった。コモド・ドラゴン 大きくなると3mにまで成長すると言う。
 性格は獰猛で、鹿やイノシシ、時には人間まで食べ、その胃腸は骨まで消化するという。 今回は5〜6匹見たが、全部昼寝しているやつだったので、あまり面白くなかった。 追っ掛けられたかったなぁ〜

 コモド島からは、イギリス人カップルと漁船をチャーターして、フローレンス島のラブハンバジョという村へ向かう。
 ラブハンバジョでは、海が見える丘に建っているバンガローに泊まったが眺めがよく結構よかった。

 ラブハンバジョから乗ったバスは、三菱製だが、車高が非常に高いのが印象的だ。 もちろんエアコンなし。 そのバスで細い道をガンガンに飛ばして走る走る。
 細い上に曲がりくねり、丘だらけでアップダウンが激しく、とても寝れたものではない。 それ以前に、しっかりとつかまっていなくてはならない上に、インドネシア語の音楽を大音量で14時間聴かされる。

 ようやくエンデに到着。 かなり疲れたのでしばらくエンデでのんびりすることにした。
 だいぶ体力が戻ってきたので、フローレンス島内を少し旅行することにした。
 エンデのウォロウォロ・バスターミナルから、トラックの荷台を改造したバス(?)トラックバスでフローレンス島観光の目玉クリ・ムトゥ山になるモニという集落へ向かう。
 エンデからは約3時間で3,000Rp(約45円)。 クリ・ムトゥ山には3つの火口湖があり、それぞれ色が違う。 またその色はたえず変化しているという。
 クリ・ムトゥ山の観光は日の出前の早朝4時、モニからトラックに乗り込み40分掛けて山頂へ向かう。 5時には山頂で日の出を待つ。
 日が昇ってきて、周囲が明るくになるにつれ、3つの湖が見えてきた。クリムトゥ山 今日の湖は、黒、深緑、エメラルドグリーンだった。
 特にエメラルドグリーンの湖は鮮やかでキレイだ。 エメラルドグリーンの湖は、以前は青色だったそうだ。
 このクリ・ムトゥ山は日の出前後の数時間しか晴れない。 この日も7時には雲が出てきたので下山する。

 一度、エンデに戻る。 泊まった宿は『Hotel Ihsaar』で1泊5,000Rp(約77円)。 インドネシアで泊まったことがある宿の中で一番安い宿の一つだ。

 フローレンス島の北にあるリユンという町に行くことにした。
 エンデのンダオ・バスターミナルから、ムンバイ行きのバスに乗って2時間半。 ムンバイからリユン行きのベモに乗り換えて3時間半の移動だ。

 このベモというのは軽自動車のバンを改造した乗り物なのだが、普通は7人乗り。 でもこの日は25人乗っていた・・・めちゃくちゃしんどい!! おかしいよ、インドネシア。

 リユンでは、宿が一緒だったドイツ人3人とボートをチャーターして沖合いにある小島にシュノーケリングをしに行く。
 フローレンス島リユンボートの上からでも海底が見えるほどの透明度で、色はもちろんエメラルドグリーン。 島には真っ白な砂のビーチがあって、最高。
 でも行くまでが大変だから、もう2度と行かないと思う。

 フローレンス島を最後にバリに帰るが、1ヶ月弱も美○ちゃんがよく付いて来れたと感心する。
 彼女のインドネシア語で助けてもらった部分も沢山あったけど。

 99年3月、バリを旅立ち、ボルネオ島を1周することにした。
 アユちゃんやシャーロットとも別れ、バリのウブン・バスターミナルから、ジャワ島スラバヤまで向かうバスに乗り込む。
 洋○ちゃんと美○ちゃんがバスターミナルまで見送りに来てくれた。

 8時間半でスラバヤに到着。 市内では全身白装束の集団がデモをしていたり、メガワティ(後の大統領)支持者がデモをしていたりで、かなり雰囲気が怖い。
 バスの中でインドネシア人のおばちゃんに「Hati-Hati ya(注意しなさいよ)」と言われた意味が分かった。
 旅行者もおらず、泊まった宿も宿泊客は俺1人だけ。 スラバヤ・プラザというデパートの前では若者たちに絡まれて「金出せ」とか言われるし、全然楽しくないのでさっさとボルネオ島に渡ることにした。

 スラバヤ・カリマス港からペルニの『クリムトゥ号』に乗り込み、ボルネオ島のバンジャルマシンへ向かう。
 夕方6時の乗船開始とともに、我先にとタラップに群がる人ごみの中でカバンを振り回していたら、知らない間に乗船できた。
 早速スペースと寝るためのマットを確保したら、まわりのインドネシア人たちから「Dari mana?(どこから来た?)」と声が掛かる。 インドネシア人って必ず聞くんだよね、これ。 「Dari Jepang(日本から)」と答えると、皆オーとさらに食い付いて話し掛けてくる。 話すのめんどくさい・・・

 22時間ほどでバンジャルマシンに到着。 船の中で知り合ったおっさんが親切に市内の宿まで送ってくれた。

 宿の近くを流れている川を歩いていたら、川辺に落ちている魚を発見! 見るとまだ新鮮そうだし、近くにいたインドネシア人が「Bisa makan itu(それ食べれるよ)」と言うから、そのインドネシア人と焼いて食べる。

 翌日、なんかお腹の様子がおかしい。 でも、無理してバンジャルマシンからバスで12時間掛けて石油の町バリッパパンまで行くことにした。
 バスの中をなぜかピヨピヨ小鳥が飛んでいる・・・
 外を見るとOrang minta-minta(orangは“人”+mintaは“ちょうだい”の意味で、直訳すると“ちょうだい、ちょうだいする人”だけど、乞食の意味。 インドネシア語楽し〜!)たちが虫取り網を持って道路の真ん中に立っている。
 なるほど!他の島みたいに信号がないから、車が止まらないので、窓からお金を投げてくれるのを待っているのだ。
 いっぱい立っているので、試しに投げてみた。 どんな上手なキャッチを見せてくれるのだろう? って、下手じゃん! 虫取り網持ってる意味があんまりないし。

 バリッパパンに着いたが、お腹の調子が最悪だ・・・
 食事も出来ず、高熱も出てきて意識が朦朧としてきた。 死ぬかも・・・
 2日ほどリポビタンDだけ飲んで部屋にこもって寝続ける。
 部屋で寝ている時、何やら下半身がモゾモゾする。 朦朧としながらも、アレっと思い下半身を見ると、いつの間にかスッポンポンになっている。
 しかも、見たこともない野郎が俺様のチ○ポを弄んでいるではないか! エッ、幻覚?っていうか誰?
 なんと宿の従業員が、俺が弱っているのを知っていて合鍵を使って入ってきたのだった。
 俺が起きたことに気付いた彼は、「Aku enak(俺、おいしいよ)」と一言。
 普通、健康な時にどういう反応をするのかは別にして、病気で死にそうな時って「ホモだ!」って思う以前に「静かに寝させてくれ!」っていう気持ちの方でいっぱいいっぱいで、「今は病気だから、とりあえず後にしてくれないかなー」と言った記憶がある。
 すると彼はズボンを脱ぎ始め、自分のチ○ポを出そうとしてる!
 「犯されるぅ〜」っと思い、思わず枕元に置いてあったアーミーナイフで彼のモモをプスッ。
 危機一髪で貞操を守ったのでした。
 ちなみにこの宿の名前は『Penginapan Sinar Lumayan』。

 ようやく体調が良くなったので、さっさとこんな町を離れることにした。
 バスで2時間のところにあるサマリンダへ向かう。 バスの窓からはバリッパパンの大きな石油コンビナートと火を噴く煙突が見える。
 もしあの石油コンビナートが爆発したら、あのホモ野郎も死ぬんだろうなぁ・・・

 サマリンダは、マハカム川の下流に位置し、東カリマンタン州の州都だ。 町中に木材が山のように積まれている。
 サマリンダの高級ホテル『ブミ・センユー』内にある日本食レストラン『大作』でスキヤキを食べる。 店内に客ゼロ。
 なんでこんな所に日本食レストランなんかあるんだろう?と聞いてみると、以前はマハカム川上流で伐採する木材のために、日本の商社マンが大挙として押し寄せたことがあるそうだ。 その商社マン向けの日本食レストランというわけだ。
 ただ乱伐採のために、自然破壊が進みインドネシア政府が規制をした頃から商社マンたちは引き上げていったそうだ。

 実は最初、サマリンダからマハカム川沿いに西に向かって上流を目指し、源流部を越えて西カリマンタンのカプアス川から西カリマンタンを目指すという“ボルネオ横断”も考えていた。
 ボルネオの奥地には首狩り族のダヤック族などがいる。 ただこれは本格的なトレッキングになり、病み上がりの体ではジャングルの中でマラリアになる確率が高そうで怖かったので、おとなしく海岸沿いを1周することにした。
 これが正解だったようで、1週間後に西カリマンタン州ポンティアナックでダヤック族とマドゥラ族の衝突があり、死者137人、避難者1万5千人を出す騒動があった。

 この部族間対立は根深く、2年後の2001年2月にはダヤック族がマドゥラ族500〜1,000人を虐殺、ダヤック族は殺したマドゥラ族の首を切り取って持ち歩いたり、心臓をえぐり出して食べたそうだ。 『首狩り族の復活』だ。
 このダヤック族は、ボルネオ島の原住民で、「首狩り」を含む黒魔術を信じていた。 その後、キリスト教に改宗している。
 一方、マドゥラ族はインドネシア政府の移民政策で、ジャワ島の近くにあるマドゥラ島から移民してきた部族で、熱心なイスラム教徒だ。
 ちょうどこの時期はジャカルタ暴動に始まり、宗教対立から起こったアンボン暴動、アチェ独立運動や、イリアンジャヤ独立運動、そしてカリマンタンの暴動とインドネシア国内がどこかピリピリした雰囲気だった。
 ただその後も東ティモールの虐殺事件や、バリの爆弾テロなどごたごたが続いているようだ。

 サマリンダからブラウという町へ行く船のチケットを5万Rp(約750円)で買った。
 このボートは今まで乗ったことがない、ちょっと大き目の漁船に一軒家をくっつけたような格好をしているボートだ。
サマリンダから乗った船 やたら狭い船内には2段ベッドが所狭しと並んでおり、そのうちの窓際に場所を取る。
 まわりのインドネシア人たちも親切で、お弁当をくれたりしてくれる。
 サマリンダのすぐ北を赤道が走っているから、ボートに乗っている途中で北半球に戻ってくる。

 ブラウに着いたのはサマリンダを出てから25時間後。
 着いてすぐにバスに乗り換え、タンジュン・セロールという町に向かう。 バスはボルネオのジャングルをひた走る。
 去年の地図にブラウ→タンジュン・セロール間の道が載っていないということは、最近出来た道路なのだろう。
 約3時間ジャングルの中を走って、バスを降りた時にはカバンも体も鼻の穴の中も埃で真っ黒けになっていた。

 ボルネオのスコールは激しい。朝からものすごい雨が降っている。
 タンジュン・セロールのおばあさんは、俺が日本人だと分かると一生懸命に覚えている日本語を話してくれたり、昔の日本の歌や軍歌を歌ってくれた。
 「おじいさんはもっと上手だった」と笑っていた。
 日本軍がここに来た時には、今よりももっとインフラが発達していなかっただろうから、大変だっただろうな。カリマンタンのジャングル

 タンジュン・セロールからは、ボートでタラカン島、ヌヌカン島と渡る。 このヌヌカン島でインドネシアを出国し船に乗ると、マレーシアのタワウに行ける。

 ボルネオ島の3分の2はインドネシア領、残り3分の1はマレーシア領とブルネイ王国だ。
 ヌヌカン島でインドネシアを一度出た俺は、その後、船でフィリピンに行ったり、寄り道をしながらもボルネオ島を回って、マレーシア領クチンからバスでインドネシア領ポンティアナックに戻ってくる。

 ポンティアナックは、ダヤック族とマドゥラ族との部族衝突があったところだ。
 衝突があった直後に、マレーシアとの国境が閉まったという噂を聞いていたので、あの衝突から時間は経っているけど大丈夫かな?と心配していたのだが、無事インドネシア入りすることが出来た。

 ポンティアナックから一度ジャカルタへ行く。 エクスプレスボートで、11時間。

 ジャカルタでしばらくボーっとする。 日記によると、なぜか俺はジャカルタで『チベット』のガイドブックを買っている・・・ それから早7年、未だにチベットには行っていない。

 ジャカルタから、一番最初に書いたようにブキティンギ経由で50時間掛けてスマトラ島のメダンへ行く。

 メダンでは、白昼『デリ・プラザ』という大型ショッピングセンターの近くで、若者数人に「金よこせ」、「持ってる袋よこせ」と絡まれた。
 最後までインドネシア語が分からないフリをしていたが、彼らは俺を中国人だと思っていた。 しまいにはシャツを掴んできたので、突き飛ばしたら、逆ギレ。
 最後は諦めてどこかに消えたが・・・

 メダンからは、またまたペルニの船で17時間掛けてタンジュンバライという町へ行く。
 TGバライで、インドネシアとはお別れだ。 ここからシンガポールに向け出国して、インドネシアの旅は終わった。

 長い旅行だったが、それでもインドネシアのほんの1面しか覗けていない気がする。
 とにかく広く、沢山の部族がいるので、単純に「インドネシアとは・・・」と語れない奥深さがある。
 当分の間は行きたくないけど、何年か何十年か後にまた気が向いたら、まだ行ったことがないインドネシアの島々に行くかも知れない。




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