
徒然日記40
| 18才の東南アジア(前編) |
2回目の旅行から帰ってきてからわずか4ヵ月後、俺はまた一人でフィリピン、タイ、カンボジア、ミャンマー、ネパールの5カ国を回る3回目の海外旅行に出掛けた。
なんで、こんなにペースが早かったのか?は不明だ。
多分、海外に興味津々だったのだろう。
なぜ東南アジアを選んだか?と言えば、単純に飛行機代が安かったからだ。
パキスタン航空の1年オープン・チケットが、日本とタイの往復で3万円であった。
今はもっと安いのもあるみたいだけど。
日本を出るときのメモに、『消費税が5%になるらしい』と書かれている。 ずいぶんと昔の話になってしまったなぁ〜。
1997年か・・・
乗ろうとしていたパキスタン航空の飛行機は、「エンジン・トラブル」という理由で出発が4時間以上遅れた。
・・・何時間遅れてもいいから、しっかり直して欲しい。
ようやく乗り込んだ飛行機は、成田空港の滑走路を走り出した。 その時の振動で、『EXIT』と書かれた非常口のサイン・カバーがガシャン!と落ちた。 そして、顔色一つ変えないスチュワーデスが慣れた手つきで落ちたカバーを元の場所にカポッとはめ直しているのを、俺はまばたき一つせずに見つめていた。
・・・・・・えーっ!?
飛行機が徐々に上昇を始めると、機体が傾き出す。 その機体の傾きと連動して、俺が座っていたシートの背もたれ部分だけが“自動”でゆっくりとリクライニングになっていった。
前の方に座っていたので、スチュワーデスの視界にあったため「背もたれを起こせ!」と怒られたが、好き好んで背もたれを倒しているわけではないのに。
・・・・・・大丈夫かな!?
これが、俺が人生で2回目だった飛行機の実話である。
この旅で、俺はパキスタン航空、ロイヤル・カンボジア航空、ドゥルック航空、ゴルカ航空の飛行機またはヘリコプターに乗ったが、おかげで飛行機が嫌いになってしまった。
ちなみに、ゴルカ航空のヘリコプターはソ連製軍用輸送ヘリであった。 プロペラの爆音と、気圧の関係で、耳栓は必須だ。
そして分かったことは・・・空飛ぶ鉄の塊に乗るよりは、陸路で行った方が死ぬ確率が低いということだ。
初めてのバンコクは湿り気のある熱帯の暑さに包まれていた。
これが俺にとっての初めてのバンコクである。 パキスタン航空のエンジン・トラブルのせいで、入国審査を終えたのは深夜3時。
最悪の滑り出しである。
まさか、そのわずか2年後から約6年間に渡って、こんなクソ暑い国に住むことになろうとは当時は予想だにしていなかった。
メモによると、当時の俺は精力的に観光をしていたようである。
ワット・ポーやワット・プラケオなど、その後の在住時には興味すら抱くことのなかった場所に暑さでメロメロになりながら行っている。
タイについての話題は、別にどーでもいい。
タイの次はカンボジアに行った。
当時はまだポル・ポト派が健在の時で、タイとの国境沿いはポル・ポト派の支配下にあった。
陸路で越えれないこともなかったが、死ぬ確率も高かったので、飛行機を使っている。
数年後に、再びカンボジアに行った時に陸路で行ったが、この時とは比べものにならないくらいに治安が安定していて驚いた記憶がある。
首都プノンペンは、俺が初めて体験するデンジャラス・ワールドであった。 政治情勢も不安定で、首相が2人もいる変則体制の上、2人の仲が悪いという最悪な状態だった。 俺がプノンペンを旅行していた数ヵ月後に、この首相2人は喧嘩を始めた。
戦車まで出動する『大人の喧嘩』だった模様である。
20年に及ぶ内戦の終結から6年が経っていたとはいえ、夜中に宿の近くで拳銃をぶっ放す奴もいれば、毎日のように宿の誰かが強盗に襲われていた。 公園で政治的デモ活動をしていた民衆に手榴弾を投げ込む奴もいた。
イメージとしては、夜のナイロビくらいか?
警官の腐り方も、半端ではなかった。 今のキルギスの警察よりも腐っていた。 やはり、馬鹿に国家権力を持たせるとマシなことがない。
昼は警察、夜は武装強盗と二つの面を持ち、夜には好んで街中で検問を実施する。 この検問で捕まれると、身ぐるみ剥がされるという至ってシンプル&効率的&権力を盾にした強盗である。
まぁ、毎日ではないが俺も夜に外出したりしていたが、全て運次第だったのは確かだ。
プノンペンで18才の俺にとって衝撃的だったのは、『ジュライ組』の存在である。
今では伝説にすらなっているが、バンコクの7月22日ロータリーに『ジュライ・ホテル』というホテルがあった。 俺が住んでいた時ですら夜の7月22日ロータリー周辺は雰囲気がよろしくなく、野良犬と会話をしてる半裸のおっさんがいたほどだ。
まぁ、ようするにドラッグと売春の巣窟だったのだ。
そんなジュライ・ホテルに住み込んでしまった中年の日本人たちを『ジュライ組』と呼んでいた。 日本でわずかながらの家賃収入があるとか、年金があるといった人たちが、タイに住み込んでひたすら売春に精を出すか、ドラッグに溺れるというのがライフ・スタイルであった。
結局、見かねたタイ当局が1995年にジュライ・ホテルを閉鎖してしまう。 俺が初めてタイに行く2年前である。
閉鎖されて行き場を失った『ジュライ組』のおっさんたちは、場所をカンボジアに移す。 それが首都プノンペンの『キャピトル・ホテル』だった。
ある日、俺がキャピトル・ホテルの1階にあるカフェで飯を食っていると、日本人のおっさんが話しかけてきた。
そのおっさんが『ジュライ組』であった。 おっさんは俺に自分のノートを見せてくれた。 そのノートには、毎日のおっさんのセックス記録が付けられており、日付と、女の子の名前、年齢、ゴムを付けたか付けないか、女の評価などの情報が事細かに書かれていた。
ほぼ100%、女の子の年齢は10代前半。
一番若い子は7才であった。
そして、おっさんがそれを嬉しそうに話している姿は、やはり18才にとっては衝撃的であった。
「こういう大人にだけはならない」と思ったのは言うまでもない。
プノンペンからアンコール遺跡を見に、シェムリアプまで移動するのも一苦労であった。
陸路で行くか? 川を逆流するボートで行くか? 二つの選択肢があったが(本当は飛行機という選択肢もある)、治安を考えると陸路はリスクが高過ぎる。
そこで、ボートで行くことにした。
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ヤマハの200馬力エンジンを4基搭載しているスピード・ボートである。
なぜか、船内はカンボジア人、屋根の上は外国人というすみ分けがされており、俺も屋根の上に乗せられることになった。
プノンペンを出て少し経った時、対岸からピシピシっと水柱が近づいて来た。 続いてタタタ・・・という乾いた音も聞こえた。
チケット集めのお兄ちゃんが思いっきり船内にダイブして、ボートは水柱から遠ざかるように急旋回した。
・・・・ほぇ?
誰かが撃ってきたみたい。
結局最初だけで、ボートに当たったわけでもなく、全然問題なかったのだが、まぁビックリしますわな。
船内から出てきたチケット集めのお兄ちゃんがニッコニコしながら、「問題ない!」みたいなことを言っている。 ジェスチャーを交えながら「あれは試し撃ちをしていただけだ」みたいなことも言っている。
えー!! お前・・・一番最初に高校球児並みのヘッド・スライディングで船内にダイブしてたくせに!
しかも・・・試し撃ちって!?
アンコール遺跡に、バンテアイ・スレイという遺跡がある。
この近くはまだポル・ポト派が出没する地域で、アメリカ人観光客とガイドが殺されていたりして、ドキドキしながら行った。
道中はかなりのダートで、グッリングリン揺られながら行った。
バンテアイ・スレイでは、かなりの数の兵士が警護をしていたのを覚えている。
日本に住んでいたら特に意識することもない『治安』に関して、ここまで「自分の身の安全」を考えて行動しなければならないのは、18年間生きてきてカンボジアが初めてであった。
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