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カンボジアの近代史


1997年3月手榴弾テロ事件 写真は1997年4月4日発行の英字新聞プノンペン・ポストの1面に掲載されたものだ。 ちょうどカンボジアを旅行中の1997年3月30日に、サム・レンシー党首率いるカンボジア野党KNP(クメール国民党)の党員約170人が、プノンペン市内をデモ行進中に4発の手榴弾が投げ込まれ、13才〜50才までの15人が死亡した。 新聞によると、サム・レンシー党首は事件を指示したのはCPP(カンボジア人民党)のフン・セン第二首相(現首相)であると非難。
 一方フン・セン側は、この事件はクメール・ルージュ(ポル・ポト派)が背後にいると反論。 未だに真相は謎のまま。
 さらにこの手榴弾テロ事件の4ヶ月後の7月に、フン・セン第二首相がクーデターを起こして、シアヌーク国王の息子でもあるラナリット第一首相を追放。 翌年、ラナリット殿下は逃亡先のパリから戻り政界に復帰しているが、今はサム・レンシー党首と反フン・セン派『カンボジア民主連合』を結成している。

 アンコール遺跡という、世界でも最大級の歴史的建造物がありながら、カンボジア国内を安全に旅行が出来るようになったのが実はこの数年だというのに驚く。 今でこそ誰でもカンボジアに行けるようになったが、ほんの数年前より以前にカンボジアで何があったのか?ほとんど知らなかった。 ポル・ポト派と呼ばれるクメール・ルージュによってカンボジア人口の4分の1が殺されたとも言われる大虐殺があったのはなんとなく聞いたことはあったが、別にカンボジアという国自体に興味もなかったので、深く調べたこともなかった

 1番最初のカンボジア旅行は、ちょど手榴弾テロ事件があった1997年3月。 キャピトルホテルプノンペンでは、バックパッカーのたまり場キャピトル・ホテルに泊まっていた。 その頃の治安は、夜出歩いたら強盗に遭う確率がそこそこ高く、昼は警察官、夜は強盗に変身する危ない警察官もいたりして結構ドキドキした。 そう言いながらも、現地で知り合った日本人旅行者たちと夜に出歩いてみたりしたけど・・・
 内戦が続いていた影響か銃火器が簡単に手に入り、外国人でも警察にそれなりのお金を払えば買えるという噂だった。 さらにこれもプノンペンで聞いた噂だが、警察に10ドル渡せば拳銃を野原で撃たせてもらえて、100ドル渡せば拳銃で生きてる牛を撃たせてもらえて、300ドル渡せば拳銃で生きてる死刑囚を撃たせてもらえるとか。 まぁ噂の域は出ないだろうが、そんなことも「本当かも」と思わせるような雰囲気だった。
 他にも、18年間生きていて初めて見る世界がカンボジアにあった。 スワイパーという数百人はいるだろうベトナム人売春婦からなる村がプノンペン郊外にあり、そこで売春婦が3ドル(約300円/外国人料金、カンボジア人は1ドル)で売られていたり、10才前後の子供まで売られていたり、“世も末”雰囲気満開だ。 そこにいる女の子たちは親の借金の肩代わりで売り飛ばされて来たのだが、その親の借金を肩代わりしてあげれば、その女の子自身を買うことだって出来る。 完全に人身売買だが、その借金の額が数千円だったり、1万円ちょっとだったりと、普通じゃない世界がそこにあった。

 プノンペンでは、ツールスレーン博物館に行った。ツールスレーン博物館 キャピトルホテルで知り合った日本人旅行者3人と一緒に行ったのだが、行く前は皆で「ツールスレーン博物館に行った後は、何か美味しいモノ食べて帰ろうよ」とか話し合っていたのだが、ツールスレーン博物館を出て来た時には皆一様に「何も食べたくない」とか言ってるし、女の人なんかはずっと泣いている。 嫌でもテンションが下がる場所だ。
 ツールスレーン博物館とは、一番最初は学校の校舎だったのだが、そこでポル・ポト時代に市民が拷問にかけて処刑されていた場所を、当時の状態そのままに保存してある建物だ。 教室を独房として使っていた部屋には金属製のベッドがぽつんと置いてあり、そのベッドに手かせ、足かせが繋がれていて、床には血痕が赤い染みになって残っている。 別の部屋には、拷問に使われた道具が展示してあり、爪を剥がすためのペンチや、水攻めにするための水槽などが無機質に置いてある。 さらに、クメール・ルージュは処刑する前に写真を必ず撮ったというが、その処刑される直前に撮られた人たちの名刺大の写真が壁を埋め尽くしている部屋もある。 また、処刑された人たちのシャレコウベで作ったカンボジアの地図も展示されていた。
 何が一番きつかったかと言うと、写真だ。 目が怖い。 約2千枚の写真に写っている人たち全員の目が、何かを訴えかけるかのような、助けを呼び求めるかのような目をしている。 その部屋に入ると、そんな約4千個の目がこちらを見ているのだ。

 プノンペンから、アンコール遺跡のあるシェムリアプまでは200馬力のYAMAHA製エンジンを4基搭載したスピードボートで行く。スピードボート 陸路で行くにはまだ危険が多いというので選んだボートだが、途中マシンガンで銃撃される。 乾いた音と、近づいてくる水柱に、思わず隣の白人旅行者の影に隠れたが、幸いボートには当たらなかった。 切符回収のお兄ちゃんなんか、自分が真っ先に床に身を伏せてるくせに、「大丈夫だ」などとほざいてる。 彼曰く、あれは強盗ではなく、川岸からマシンガンの試し撃ちをしただけ、だそうだ。 仮に本当だとしても、ボートに向かって試し撃ちはやめて欲しいけどね。 ちなみにボートは、カンボジア人が中、外国人が屋根の上で、もし襲われたら外国人が真っ先に死ぬ。

 プノンペンでも、シェムリアプでも思ったのが、自分の親父の世代である40〜50代(当時)の大人を見掛けることがほとんどない。 クメール・ルージュは教師や留学生や僧侶をはじめとする「インテリ」たちを反抗分子とみなし、虐殺いった。 最終的にはメガネをかけている人も風貌が「インテリ」とみなされて処刑されたという。 そんな虐殺の歴史も、今のカンボジア王国を形成しているカンボジア人の年齢層に影響を与えているのではないだろうかと、考えたりした。 特に、教師などの知識人層が今のカンボジアに不足しているという話しを聞いたりすると、そんな考えが真実味を帯びる気がする。

 アンコール遺跡で物売りをしているのは、10代前半の子供が多い。アンコール遺跡のモノ売りたち 屈託のない笑顔でモノを売りに来るが、話をしてみると他の国のモノ売りよりすれていないのが分かる。彼・彼女たちはポル・ポト政権時代の後に生まれているはずだが、カンボジアの歴史をどう思っているのだろうか? 生きていくのに必死で、過去を振り返っている余裕はないのだろうか?
 タイは“微笑みの国”と言われているが、カンボジア人の方が暗い歴史の過去を背負いながら逞しく生きているのを見ると、カンボジアの方が“微笑みの国”という呼び方に合っている気もする。

 2回目のカンボジアは1999年で、クメール・ルージュが完全崩壊した後で、陸路でカンボジア入りして、国内旅行も陸路移動した。 カンボジアからタイへ戻る時は、コンポンソムから海をボートで渡って、タイ・トラート県ハートレックというルートを取った。 1回目の時に比べて治安は格段に良くなっていた。

物売りの少女(モノクロ) アンコール遺跡で掃除をする老人 アンコール遺跡と僧侶(彼は元クメール・ルージュ兵)
シェムリアプの市場で魚を売る コンポントム近郊の子供たち アンコール・ワット「第二回廊」

 カンボジア旅行を終えてから、カンボジアがどんな歴史を歩んできた国なのか調べてみた。 旅行に行く前に知っていたら、また別な視点からカンボジアを見れたかも知れないと思う。

 簡単にカンボジアの近代史を説明するとこんな感じ。

@ベトナムで戦争をしていたアメリカは、隣の国の言うことを聞かないシアヌーク君の代わりに、仲良しのロン・ノル君を応援

Aアメリカとロン・ノル君に追い出されたシアヌーク君は、北京に逃げる。そこで仲良しになったのが、ポル・ポト君

B5年後、アメリカがベトナム戦争で負けてしまったので、ロン・ノル君はアメリカに逃げる

Cアメリカに勝ったベトナムに助けてもらって、ポル・ポト君がカンボジアを支配。喜んで帰ったシアヌーク君だが、ポル・ポト君に家に閉じ込められる

Dポル・ポト君、何を考えたのかカンボジア人をいっぱい殺しまくる

Eついでにベトナム領のメコン・デルタに興味を持ち、侵入を繰り返す

Fついにベトナムが怒って、ポル・ポト君をやっつけに来る。 ポル・ポト君は負けて、ジャングルに逃げてしまう

Gベトナムと仲良しだったヘン・サムリン君がポル・ポト君の代わりにカンボジアを支配

Hポル・ポト君と、シアヌーク君と、シアヌーク君のお友達ソン・サン君は3人で力を合わせてヘン・サムリン君をやっつけようと約束

Iベトナムが怖いアメリカと中国とタイなどは、そんな3人を助けてあげる。武器もポル・ポト君にプレゼント

Jベトナムがカンボジアを出て行く

K今までケンカしていた3人(ポル・ポト君、シアヌーク君、ソン・サン君)と、フン・セン君(ヘン・サムリン君の代わり)が仲直り

L仲直りしたついでに人気投票をしたら、シアヌーク君の息子ラナリット君の方が、フン・セン君より人気

Mそれに怒ったフン・セン君が、ラナリット君にケンカを売ってカンボジアから追い出してしまう。

Nでも次の年には、ラナリット君はお父さんに助けてもらって、カンボジアに帰ってくる

Oポル・ポト君、ジャングルでひっそり死んでしまう


 さらに詳しい内容は以下の通り。 かなりややこしいが、カンボジアという国がアメリカやソ連や中国などの大国の思惑によって翻弄されてきた事がよく分かる。 特にアメリカは、「世界の正義」を公言しながら、約200万人を虐殺した“後”のポル・ポト派(クメール・ルージュの武装組織)を援助している。 ちなみに日本やタイも援助している。

主な出来事
1866年 :フランスがカンボジアを保護領(植民地)とする
1941年 :日本軍、フランス領インドシナ進駐
1945年8月 :日本の敗戦に伴い、フランスの間接統治が再開するが、独立運動が激化。カンボジア国王シアヌークは独立を宣言
1953年11月 :『カンボジア王国』として完全独立を達成
1969年 :アメリカがカンボジア領内をじゅうたん爆撃
1970年3月 :17年間続いたシアヌーク国政が、アメリカ、南ベトナム、タイの支援を受けたロン・ノル将軍率いる軍部により打倒される。『クメール共和国』成立。シアヌークは北京へ亡命し、そこで王国民族連合政府を作り、ロン・ノルに対抗 *1
1975年4月 :ベトナム共産党の支援を受けたインドシナ共産党連合勢力がプノンペンを制圧。
1976年 :インドシナ共産党の一派であったポル・ポト率いるクメール・ルージュが、内部抗争の末ポル・ポトを首相とする『民主カンボジア』を樹立。その後、クメール・ルージュによって200万人以上とも言われる大虐殺が行われる
1978年 :ベトナムがカンボジアに侵攻 *2
1979年1月 :ベトナムの支援を受けるヘン・サムリン率いるカンボジア救国民族統一戦線がプノンペンを制圧。『カンボジア人民共和国』の成立を宣言。クメール・ルージュはジャングルに逃げ込む
1982年7月 :クメール・ルージュ、シアヌーク国王派、クメール人民民族解放戦線(ソン・サン議長)の3派は『民主カンボジア連合政府』を樹立し、ヘン・サムリン政権との内戦が続く。 ヘン・サムリン政権を「ベトナムの傀儡」とするアメリカやタイなど国際社会は3派連合を支援。
1989年9月 :ベトナム軍がカンボジアから完全撤退
1991年10月 :パリ和平協定(カンボジア紛争の包括的政治解決に関する協定)成立。4派による内戦終結
1993年5月 :パリ協定に基づき、UNTAC(国連カンボジア暫定機構)の管理のもと総選挙実施
1993年9月 :新憲法公布。『カンボジア王国』発足。シアヌーク国王即位。国王がラナリット第一首相(シアヌーク国王の息子)、フン・セン第二首相を任命
1994年7月 :KR(クメール・ルージュ)非合法化法成立
1996年8月 :ポル・ポト派の分裂
1997年3月 :クメール国民党のデモへの手榴弾テロ発生
1997年7月 :首都プノンペンにて、ラナリット第一首相とフン・セン第二首相の私兵の間で武力衝突発生。日本人を含む100人以上が死傷。ラナリット殿下、パリへ逃亡。
1998年3月 :ラナリット殿下帰国
1998年4月 :政府軍、クメール・ルージュ拠点を制圧、その後ポル・ポト氏死亡
1998年7月 :総選挙実施
1998年11月 :ラナリット殿下は国会議長に、フン・セン氏は首相に就任(新政府成立)
1999年3月 :タ・モックKR(クメール・ルージュ)元参謀総長逮捕

 1866年以降、フランスの植民地支配を受けていたカンボジアは、日本軍のインドシナ進駐に伴って一時的にフランスの植民地支配から抜け出すが、日本の敗戦によるフランスの再統治を受けようとしていた。 その時、ノロドム王家出身のシアヌーク国王が、フランスからの独立を宣言。 8年後の1953年に『カンボジア王国』として完全独立を果たす。

 その後の17年間は、比較的安定したシアヌーク国王時代になる。

 *1 なぜ、アメリカがシアヌーク国王政権の『カンボジア王国』を倒す必要があったのか?
 当時、カンボジアの隣国ベトナムでは、1960年代前半にアメリカが介入したベトナム戦争が行われていた。 ソ連(当時)という共産主義国家の支援する北ベトナムに対し、アメリカは南ベトナムを支援していた。 共産主義寄りのシアヌーク国王は、1965年に北ベトナムへ爆撃を行うアメリカと断交する。 その後、北ベトナムが組織したゲリラ部隊『南ベトナム解放戦線』(通称・ベトコン)は、ラオス領やカンボジア領を通って北ベトナムから南ベトナムへ抜ける『ホーチミン・ルート』と呼ばれる補給ルートを使って、物資や兵力を南ベトナムへ投入していた。 シアヌーク国王は、この『ホーチミン・ルート』構築を援助する。 ベトコンのゲリラ作戦に業を煮やしたアメリカは、ベトコンの補給ルート『ホーチミン・ルート』を潰すため、1960年代後半からカンボジア領内を爆撃するようになる。 その爆撃で使われた火薬量は、太平洋戦争でアメリカが日本本土に投下した火薬量の5倍に上るという。 ついに1970年にアメリカは、親米のロン・ノル将軍を支援してシアヌーク国王がモスクワに外遊中にクーデターを起こさせ、『クメール共和国』を樹立。 このクーデターを実際に画策したのはCIAである。 その翌月には、アメリカ軍はカンボジア領に侵攻、翌年にはラオス領に侵攻して『ホーチミン・ルート』を壊滅しようとする。

 この時、シアヌーク国王は中国へ亡命したが、彼を助けて、擁立したのは毛沢東主義に心酔したポル・ポト率いる共産主義勢力「クメール・ルージュ」だった。 北京で、シアヌークはクメール・ルージュと共に「王国民族連合政府」を樹立し、ロン・ノルに対抗する。

 ちょどこの頃、ソ連と中国は同じ共産主義国家でありながら、決定的な対立敵対期に入るようになる。 1969年には中ソ国境で武力衝突が起こる。

 親米ロン・ノル政権が続いたのは、ベトナム戦争中だけだった。 1975年4月にベトナムでは、アメリカが支援していた南ベトナムが、ソ連が支援する北ベトナムの前で敗退、サイゴンが陥落して、ベトナム戦争は共産主義勢力の勝利で終結する。 カンボジアのロン・ノルもアメリカに亡命する。
 サイゴンが陥落する直前に、「ベトナム共産党」が支援する、クメール・ルージュを含む「インドシナ共産党」連合はカンボジアに攻め入り、1975年4月17日にカンボジアの首都プノンペンを制圧する。
 同じ年の12月、シアヌークは亡命先の北京からカンボジアに帰国。 しかし、プノンペン市内の王宮に幽閉される。

 翌年の1976年に、内部抗争の末にポル・ポト率いるクメール・ルージュが『民主カンボジア』を樹立。
 クメール・ルージュとは、フランス語で「赤いクメール」という意味を持つ極左集団で、中国の毛沢東思想や、文化大革命に影響を受けた極端な思想を持ち、
・都市の無人化
・私有財産の強制没収、貨幣の廃止
・家族を含むあらゆる組織・制度の解体
・知識人の抹殺
・バス、鉄道などの移動手段の廃止
・仏教、民族音楽、古典舞踊の禁止
などを進めていった。
 ポル・ポト政権は、その後1979年にベトナム軍に敗れるまでに約200万人(正確には把握出来ていない)を虐殺する。

 *2 
なぜロン・ノル政権を倒すために一緒に戦ったクメール・ルージュを、ベトナムが攻めたのか?
 クメール・ルージュは領土問題をめぐってベトナムとの軍事同盟を破棄し、緊張が高まっていた。そして1979年にソ連の支援するベトナム軍はカンボジアに侵攻。(ベトナムの侵攻の立役者になったのが、現首相のフン・セン) この時、ベトナムにはソ連、クメール・ルージュには中国が後ろ盾となっていた。(前述した通り、ソ連と中国は敵対していた) ベトナムのカンボジア侵攻に対する報復として、中国は20万の大軍でベトナムに侵攻。 しかし1ヵ月後に2万人の戦死者、4万人の負傷者を出して撤退。(中越戦争)
 結局、同年にベトナム軍とヘン・サムリン、フン・セン(現首相)率いるカンボジア救国民族統一戦線がプノンペンを解放。 クメール・ルージュはジャングルに逃げ込む。 この時シアヌークは、クメール・ルージュ政権の特命大使として、ベトナムの侵攻を訴えるために北京・東京経由で国連総会に向かっている。
 親ベトナム派のヘン・サムリンが『カンボジア人民共和国』を樹立する。 ベトナム軍はカンボジア領内に留まったまま。

 ヘン・サムリン政権に対抗して、クメール・ルージュ、シアヌーク派、シアヌーク前政権時代の首相ソン・サン率いるクメール人民民族解放戦線の3派は、反ベトナム連合を結成。 『民主カンボジア連合政府』を樹立して、親ベトナムのヘン・サムリン政権、ベトナム軍と内戦になる。

 国際社会は、ソ連が後ろ盾のベトナムの勢力拡大を恐れ、アメリカや日本、中国、タイなどは、反ベトナム勢力であるクメール・ルージュのいる『民主カンボジア連合政府』を支持。 アメリカは直接支援しないものの、中国に軍事支援を要請。 中国やタイからクメール・ルージュに軍事支援を含めた援助をする。 例えばタイは、カンボジアが地域軍事大国ベトナムの影響下に置かれるのを恐れ、タイ−カンボジア国境でゲリラ活動をするクメール・ルージュを武器の密輸などで援助した。 さらにクメール・ルージュがもたらすルビーや木材で莫大な利益を得ている。
 
 国連のカンボジア議席も、1989年までカンボジアを実質的に支配しているヘン・サムリン政権ではなく、ポル・ポト派が占めていた。

 ようやく1989年に、ベトナム軍がカンボジアから完全撤退。
 1991年には、クメール・ルージュ、シアヌーク派、ソン・サン率いるクメール人民民族解放戦線、ヘン・サムリン政権(この時の首相はフン・セン)の4派の間で和平協定を締結、内戦は終結する。

 翌1992年に、シアヌークが13年ぶりに帰国。
 1993年には、国連主導の下(代表は明石康氏)で総選挙を実施するが、クメール・ルージュはボイコット。 選挙結果は、シアヌーク国王の息子ラナリット殿下率いる『フンシンペック党』58議席、フン・セン元ヘン・サムリン政権時代の首相率いる『人民党』が51議席、その他が11議席となる。
 ここに『カンボジア王国』が発足し、シアヌーク国王即位。 国王は第一首相にラナリット、第二首相にフン・センを任命する。

 ところが、今まで実質的にカンボジアを支配していたヘン・サムリン政権の流れを組むフン・センにすれば、今までゲリラ勢力でしかなかったシアヌーク派のラナリットに“第一”首相という座を奪われ、自分が“第二”首相であるということが面白くなかったに違いない。 実際、武力衝突した時も、今まで軍を掌握していたフン・センの方が、ゲリラ上がりのラナリットよりもはるかに軍事力では上だった。

 1997年7月、プノンペン市内でラナリット第一首相とフン・セン第二首相の武力衝突が発生。 戦車なども出た大規模な衝突で100人以上が死傷する。 敗れたラナリットは、パリに亡命する。
 これに対して、国連や欧米諸国は強く反発。 国の財政をほぼ欧米や日本からの経済援助で賄っている状態から、フン・センはしぶしぶラナリットの帰国を認める。

 1998年4月、ジャングルでポル・ポト死去。
 その後、フン・セン首相、ラナリット国会議長の新政府が成立する。

 さて、ポル・ポト率いるクメール・ルージュだが、内戦終結後の新政府との協力を拒絶し、戦い続ける。
 クメール・ルージュは1996年まで政府軍を寄せ付けなかったが、徐々に軍が堕落し規律も崩壊し、指導者や兵士の離脱により弱体化していった。 1997年、ポル・ポトは権力維持のため側近のソン・センを処刑するが、その後に軍司令官タ・モクのクーデターによりポル・ポト自身が逮捕される。
 1998年4月15日にポル・ポトは心臓発作で死ぬ。遺体の爪が変色していたことから、毒殺か服毒自殺したもの見られている。

 “アジアのヒトラー”ポル・ポトは、結局裁かれることなく死んだ。 そのため、その死に色々な憶測が生まれている。
 もし国際法廷が設置されて、ポル・ポトが裁かれた場合、昔の“共犯者”であった中国やタイ、間接的に支援していたアメリカや日本をはじめとする欧米諸国、さらに一度ならず二度もポル・ポトと共闘したシアヌーク国王にどのような火の粉が降りかかるか? 当事者たちは戦々恐々としていたに違いない。

 ポル・ポトが行った大虐殺という事実は除いて、実は彼自身もアメリカや中国など大国や、タイやベトナムなど隣国の思惑に利用された被害者だったのだ。
 だた、1番の被害者は、ベトナム戦争時代にアメリカ軍に爆撃され、クメール・ルージュに虐殺され、侵攻して来たベトナム軍に殺された田舎の農村に住む一般カンボジア人たちだが・・・




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